Wwoof生活1年で見えた事

自分で自分の生活をつくる。そんな生活に参加させてもらってきたこの一年。畑や、乳搾り、食に関することから、道路の舗装、水道管用の穴掘り、薪割りetc.自分の生活の中で当たり前に整っていた物が、あった物が、時間と労力をかけて人の手で作られ、整備されていたのだと気づいた。全部を自分で作るって大変だ。生活をするのに必要な仕事量多い。

食べ物はファームの中で賄えるものがメインで、ある食材を使ってごはんをつくったり、車や公共交通機関がないから、自転車やヒッチハイクをしたり、いろいろな制限はあるけれど、特別不便だ!とはなっていない。きょねんの春きたばかりの時は慣れるまで生活スタイルにuncomfortableだった気はするけれど、慣れてしまえば今やホーム。言葉は今も戦っているけれど、友達もでき、知り合いもでき、私の中でカナダが帰って来れる場所のひとつになっている。

Wwooferというお金を稼がないワーホリの過ごし方を選んで、労働と生活の交換というお金を介さない関係からお金の役割に気づく。生活(食住)のために、生活をつくる仕事をする。リストの中からどれがやりたいを手分けして選べる時もあるけれど、必要な事は選べない。なんでもやる。お金は選べる力、知らない人にも問題解決をお願いできる力だと本で読んだけど、こうゆうことか。

人の社会で生きていくには、お金が必要で、お金でしか払えないものもある。街の中では、生活に必要なものはほとんど買える、借りれる。やりたいことを選ぶことができる。極論、家から一歩も出なくても生活できて、世界と繋がれる現代。お金という共通の価値を介して、発展した技術で、人と人の支え合いで、すべてを賄えるって素晴らしい。

けれど、お金を介さない、自分の生活に直結する時間や労働の割合を増やしてもいいのかも知れないと思っている。畑で野菜育てて採ってみたり、部屋の棚を作ってみたり、車の内装変えてみたり…。お店で買えるし、タネや材料は買わないといけないけれど、当たり前にお金を払っていた事の中にもっと自分でできる事が隠れているなと、自分にできることの可能性を感じる。また、人の社会だけじゃなく、大きな自然のなかで、地球で、生きていることを感じていたい。街で沢山の物に囲まれると、進撃の巨人の壁の内側のように感じる事があった。漠然と感じていた窮屈感。外に出ると、力仕事は多いし、予想外のことや、スムーズに進まないことも多くなるけれど、なんだかそれが自然のように感じる。畑をしているとき、外で寝っ転がっているとき、遮る物なく見上げる空や、大きな木々に囲まれながら、もっと大きな世界にいることを感じている。

そして、自分の生活のためだけに使う時間、労働、贅沢だなと。当たり前のように誰かのために働いてお金を頂いて生活をしていたけれど(それが社会の成り立ちだと思う)、その時間の一部をもう少し誰かのためじゃなく、自分と自分の周りのために働く時間に割いてもいいのかもしれないと。いろんな技術に助けられているけれど、お互いの顔がみえる、直接やりとりできる距離感に安心感を感じる。わたしにとっての大きなポイント。世界に飛び回りながらも、そんな距離感が好き。周りの人たちと生活をつくるWwoofという形は、わたしに合っていたのかもしれない。知っている人がいて会いにこれる、帰って来れるような場所ができた。そして私もそんな場所を作りたいと思うのです。受け入れてもらうだけじゃなく、待ってるよ!おかえり!と言える、受け入れられる側にもなりたい。

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